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2014年01月28日(火)更新

悪い報告ができる組織をつくる、ということ


千年続く 会社をめざそう 55
■悪い報告ができる組織をつくる、ということ■



「報告・連絡・相談」の大切さは、どなたも感じておられることと思いますが、「報・連・相」の習慣を組織に根付かせるのは、いうほど簡単ではありません。
 
特に報告は、四六時中社員の行動を見ていることができるのであれば必要ないかもしれませんが、現実はそうはいかない。仮にできたとしても、頭の中までは覗くことはできませんから、気付きや発見は、やはり言葉にしてもらわないといけません。
 
ならば、報告がないという状況は、トップの掲げる方針に向けて正しく運営されているか、理想と現状の間にギャップはないか、やるべきことがきちんとできているか、などが確認できないまま経営されているということ。よくよく考えてみれば、背筋が凍る思いが致します。
 
その中でも特に必要なのは、できない報告、悪い報告、失敗報告。このような報告がない、更には隠すことが常態化しているような組織は、日々衰退、破滅の道を突き進んでいると言っても過言ではありません。
 
しかしこのような報告は、しなくて済むならしたくないと思うのが普通の人間。よって、放置すれば埋もれていくこのような報告がきちんと上がってくる組織・風土を作ることがリーダーの重要な役割の一つです。
 
では具体的にどうすればそのような組織・風土を作ることができるか。それは、できない報告、悪い報告、失敗報告がなされたとき、勇気を持ってそのような報告をした者を褒めることが何より大切なことです。
 
もちろん、そのような結果になってしまったことについては厳しく叱責する必要がありますが、報告そのものについては褒める。逆に報告がなかったときこそ、徹底的に叱る。悪い報告がなされないことを絶対に許さない。そのメリハリこそ大切です。
 
第二に、良くない結果に対しては、単に叱責だけに終わらせず、一緒になってケツを拭く。リーダーにはそういう心構えと姿勢が必要です。
 
悪い報告をしないと叱られ、すればその勇気を褒められる。さらにその結果に対しては一緒になって解決してくれようとする。そういうリーダーのもとには、悪い報告を厭う部下が育つはずはありません。
 
一見、割の悪い立場にも思えますが、そういうリーダーに対して部下は、一所懸命、そのリーダーを支えようとするものです。結果として、強い団結と、最良の上限関係が生まれるもの。
 
そのためにも、悪い報告がないことを許さず、勇気を持ってなされた報告を褒め称え、結果に対しては共に償う。是非そのような姿勢を持っていただきたいと思います。
 


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2014年01月17日(金)更新

明るい組織にする、ということ


千年続く 会社をめざそう 54
■明るい組織にする、ということ■

 
 
「明るい人の周りには明るい人が集まってくる」
 
このことに異論のある方はいないと思います。
たまにそうでない人が寄って来ることもありますが、
そういう人はそのうち、離れていってしまうか、
当人が徐々に明るくなってくるかどちらか。
 
朱に染まれば赤くなる。そうなれない人は馴染まず出ていくしかない、
ということですね。
 
それでは、明るい組織がよいか、そうでない組織がよいか、これは明白。
 
そして明るい組織にするためには自分自身がまず明るくなるしかありません。
自分の明るさを求心力にして、明るい人を呼び、そうでない人も明るくさせる。
そういう姿勢が大切です。
 
もし明るくなることに自信がなければ、
明るい人を見つけて食らいついていくしかありません。
 
以前からの知り合いで、どちらかというと不機嫌を身にまとったような方と、
先日、久しぶりにお会いしたのですが、
まるで別人のように明るく、爽やかになっていました。
 
少々驚いて、理由をお尋ねしたところ、
次のような答えが返ってきました。
 
ご自身が経営されている会社が暗く、
ギスギスしていたのを何とか変えようとされていた彼は、
それを社員のせいにしていた。
結果としてより厳しく、辛く当たることになる。
するとどんどん悪化していき、空気は悪くなるばかり。
 
ある時ふと「原因は自分にあるのではないか」と気づき、
自らを変えていこうと心に決め、いろんな会合や研修にも出るようになった。
その時に出会った一人のメンバーが非常に輝いて見え、
その人のようになりたいと念願し、一挙手一動足を真似た。真似に真似た。
そして組織は徐々に明るく、元気になっていったのだと──。
 
このような事例は少なくありません。
「自分が変われば相手も変わる」ことを信じ、
理想とする組織にするために自分の何を変え、何を加えればよいか、常に考え、
実践することが大切なのだと思います。
 


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2013年12月26日(木)更新

真の「自信」ということ


千年続く 会社をめざそう 53
■真の「自信」ということ■

 

ときに、自信と驕りを履き違えている人を見かけます。
厄介なのは、それがなかなか自覚できないことと、
その自他の認識のギャップが、好ましいコミュニケーションを阻害し、
ひいては組織崩壊の糸口にもなりかねないこと。
人の上に立つ者が、細心の注意を払うべきことの一つだと思います。
 
ではいったい真の自信とはいかなるものか。
今回はこの点について、私なりの考えを述べさせていただきたいと思います。
私は真の自信には以下4つの条件が必要だと考えます。
 
第一に、真の自信には“実績”が伴うものだと思います。
「実績のない自信なんてあるのか?」と思われるかもしれませんが、
現実にあります。自分は何の努力もしていないくせに他人の欠点をあげつらい、
他者を貶めることによって自分のポジションを維持しようとしている人がいるでしょう。
そういう自信を私は“虚なる自信”と呼び、最も戒めています。
こういう人に限って人を激しく蔑むので、悪影響はこのうえない。
 
第二に、真の自信には“謙虚さ”が伴うものだと思います。
「私が今こうして自信をもってやっていけるのは、私を支え、
助け、導いて下さる存在があったからである」
この謙虚な気持ちがあってこそ、経験と実績は輝きを増し、
周囲からも認められる揺るぎない自信となります。
周りが快く思えない自信など、虚栄に過ぎない。
 
第三に、真の自信には周囲への“信頼”が伴うものだと思います。
周りにいてくれる人たちを信じ切ることができるから、
自らは自信あることに全力を尽くすことができる。
また、人は信頼されていると自覚できた時、
その信頼を裏切ってはならないという意識が強く働きますから、
よりいっそう両者が相乗効果を発揮できるのです。
よく「俺は大丈夫だが、周りの奴らが問題だ」などという方がいらっしゃいますが、
それはまさに砂上の楼閣。
現状はある一定の条件が揃っているから、
何とか自分への自信がキープされているが、
この条件がなくなった途端に崩れる。
 
第四に、真の自信を持つ人は“無頂点”。
人の成長は、直線的な右肩上がりとは行かず、浮き沈みを繰り返しながら、
徐々に上がっていくといった軌道を描きます。
自信も同じで、あるときに感じられた自信が、
ふとしたことから持てない状況にあることに気づくことがあります。
問題はその後の対処の仕方で、真の自信を持つ人は、
自信がないことを自覚した時、次なる革新を始めます。
逆にそうでない人は、過去の自信にしがみつこうとする。
 
さて、この真の自信を身につけた人には、一つの特徴があります。
それは真の優しさを持っていること。
周囲の人に本当に幸せになって欲しいと心から願い、
期待水準に至るまで厳しく指導・叱責し続ける。
その一方で、相手の状況によっては、ときに鈍感を装ったり、笑って見逃すこともできる。
そのメリハリのある真の優しさを身に付けることができているのが、
真の自信を持つ人であるように思うのです。
 
この48年間の人生で、この条件を満たす人に何人もお会いしましたが、
それはもう、とても魅力的な存在でした。
私自身がそのような人になりたい、そう願って日々研鑽に努めています。


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2013年10月29日(火)更新

本当の「倍返し」ということ


千年続く 会社をめざそう 52
■本当の「倍返し」ということ■

 
 
大人気ドラマとなった『半沢直樹』。全体的には好印象を持って見させていただいていたのですが、最終回については、役員会での土下座や、出向命令時の半沢の頭取に対する目つきなど、すっきりしないものを抱えたままの終焉に残念な思いが残りました。皆さんはいかがだったでしょうか。
 
さて、今年の流行語大賞にもなろうかという半沢の決め台詞「倍返し」ですが、最初に耳にした時は、少々違和感がありました。本来は「仕返し」的に使う言葉ではなかったように思えたからです。実際に辞書を引いてみても、「贈られたものや受領したものに対して、倍額に相当する金品を相手に返すこと」(大辞泉)とあります。
 
もしこのドラマを通じて、倍返しの本当の意味が間違って伝わってしまっているのであれば、少し悲しい気持ちになります。
 
そもそも「仕返し」という行為は、仇討が厳しく制限されていたことを鑑みても、この日本では恥ずかしい、誤った行いという認識があったように思います。受けた恨みは水に流し、受けた恩は倍返し。これこそが二千年を超える歴史をもつこの国が、幸せな社会を実現するために、その経験を通じて学び、伝承してきたことだと思うのです。
 
「仕返しからは憎しみしか生まれない」。このことは、今も世界各国で繰り広げられ、いつ終わるとも知れない戦争やテロなどからも、火を見るより明らかです。
 
一方で、友人や真っ当な人間に対する半沢の態度には、いま日本人が忘れかけている「相手の立場・事情・気持ちになって思いやる」「罪を問わず、咎めず、許し切る」、“恕”の心に溢れていました。
 
正直なところ、この“恕”という軸でこれまでの自分の態度・姿勢を見詰め直したとき、反省すべきところが多く、赤面の思いに駆られることが何度もありました。今一度その時の反省を思い起こし、これからの人生に活かしていきたいと思います。
 
相手の心に自分の思いをお遣いに出して、その方に本当に必要なものを知り抜き、自分のできる精一杯を尽くし、心から喜んでいただく。そしていただいた恩に対しては倍返し。そんな人生を歩んでいくことが出来たら、これ以上の幸せはないように思います。
 
倍返しといっても、何も金品である必要はありません。“無財の七施”という教えもある通り、お金を掛けずともできる恩返しはあります。
 
ある社長は、何かあると直ぐにお礼状を下さいます。
もちろん直筆で、なおかつ「いつ書かれたのだろう?」と不思議に思うほど早いのです。その形式的でない心の籠ったお言葉と、例えばお伺いさせていただいたことへのお礼であれば、私の退室後、直ぐに書かれたのであろう到着スピードの速さは私の想像をはるかに超え、十倍返しほどの感動をいただきます。
 
ご自身でできる「倍返し」のスタイルを模索することも、また楽しいものだと思います。


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2013年08月28日(水)更新

決断の本質は「捨てる」肚の括りにあるということ

千年続く 会社をめざそう 51
■決断の本質は「捨てる」肚の括りにあるということ■

 
 
国税庁が公表した「会社標本調査」によれば、
平成23年の法人数は257万社で、そのうち、利益計上申告法人は27.7%だったそうです。
法人数は毎年減少を続け、更にその中の黒字企業は1/4しかない。
しかし、実態はもっと厳しいようにも思います。
 
そのような環境にあっても、成長し続けている会社があります。
仕事柄、多くの経営者の方とお会いしますが、
成長し続ける会社の経営者の方には、いくつかの共通点があります。
 
まずはそうでない経営者の方に共通するのが「○○だからできない」というフレーズ。
「人がいない」「お金がない」「時間がない」「ノウハウがない」「設備がない」「情報が入ってこない」「協力者がいない」「前例がない」・・・まさに“ないもの尽くし”です。
 
特に中堅・中小企業においては、この“ないもの尽くし”の状態はどこでも同じ。
成長し続ける企業にあって、そうでない企業にはない、というものではありません。
 
成長し続ける企業の経営者に共通するのは、その後です。
「ならばどうするか?」ここに真剣に向き合い、
クリアすることを習慣としている経営者がいる会社が成長し続ける、そういうことだと思います。
 
もう一つ大切なことがあります。
上記のような“できない理由”が出てくる根源、
すなわち過去のしがらみを断ち切ることができるかどうか、という点です。
誰でも「できない」で止まりたい訳ではない。
止まらざるを得ない理由があるのです。
 
「何か新しいことがしたいのなら、まず、何を捨てるかを考える」
 
どうも、この観点が必要なようです。
 
以前、ある雑誌で松井証券の松井道夫さんが
「決断とは、実は捨てることである」と仰っていました。
「その決断ができないと、なにかをやろうにも、やりようがなく、
捨て切れないこと(通常の証券営業の事業)が新しくやろうとすること
(ネット販売)の足をひっぱる(営業マンの歩合給を含む料金体系と
ネット販売での価格設定は両立しようがない)」と。
 
まさにそういうことだと思います。
 
両手が塞がっている中で欲しいものがあるならば、一つ手放すしかない。
その決断と肚括りができるかどうかが、
成長し続けることができるかどうかの分岐点だと思います。


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2013年07月31日(水)更新

「他責」か「自責」かで人生は変わる、ということ


千年続く 会社をめざそう㊿
■「他責」か「自責」かで人生は変わる、ということ■

 


 
仕事柄、多くの経営者・後継者・経営幹部の方とお話しする機会が多いのですが、
その内容によって、何度もお会いしたくなる方とそうでない方がいらっしゃることは、
皆さんも感じられるところではないでしょうか。
 
いくつかの理由が考えられますが、大きな要因に、
問題に対する姿勢が挙げられるように思います。
 
あまりよい印象が持てない方の共通項は、「他責」にすること。
社会が悪い、政治が悪い、取引先が悪い、社員が悪い、運が悪い──と
何かにつけて人や環境のせいにして、自らの問題に向き合おうとしない。
 
こういう人とお話をしておりますと、
まあ、社会や政治の部分については共感できる点もなくはないのですが、
特に経営に直接関わる対象者に矛先が向かうと、
「でもそういう環境を作っているのはあなたですよね」と
言いたくなってしまいます。
 
他責の人は総じて仕事がうまくいかない、経営がうまくいかない。
しかし他責にするゆえに学べないし、自分のいたらなさに気づけない。
だから、結局何も変えることができない。
 
そういう方とお話をしていると気分が悪くなるだけで学ぶことは少ないですから、
あまりお会いしたくありません。
 
一方で、何度もお会いしたくなるような方の共通項は
「自責」で考えることが身についていらっしゃること。
 
そういう方は、いかなる失敗からも立ち直り、
窮地に陥っても必ずリカバリーされているから、
話の内容も楽しく、また勉強になるものです。
 
そういう方であればその魅力に虜となり、
一方で自らのありように反省もさせられる。
そしてまたお会いしたくなる。
 
要するに、他責にする人は、人に怒りを生じさせ、
自責で考えることができる人は、相手の心を正す。
そういうことだと思います。



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2013年07月19日(金)更新

最高のものにふれる、ということ


千年続く 会社をめざそう㊾
■最高のものにふれる、ということ■


 
 
私は若手の経営者・後継者の方々に、
「時には最高のものにふれてみること」をお勧めしています。
それだけで心が豊かになり、明日への活力になる、と。
 
それはどんな分野のものでもよいと思います。
 
私が必ず年1回は足を運ぶのは、歌舞伎とクラシックのコンサート。
それ以外に、落語や狂言なども、興味の対象。
街に張り出されるポスターなどを見て、心躍るものに出会っただけでも、
幸せな気分になります。
 
お聴きしたところによると、「鎌倉シャツ」で知られる、
メーカーズシャツ鎌倉の創業者・貞末良雄さんは
「経営者はグレートコンシューマたれ」と
おっしゃっているそうです。

自分でお金を使ってちゃんとしたものを食べたり買ったりするから、
ものの価値がわかる、審美眼、審“物”眼、のようなものを養えるとのこと。
 
また、池波正太郎さんもその著書「男の作法」の中で、
若くてカネがないときでも、少し小金を蓄えて、
一月や三月に一度は、しっかりとした店でよい料理を食べろ、
と書いていらっしゃいます。
でないとものの価値がわからない人間になる、
戦前は、カネがなくてもみんなそんなことをしていた、と……。
 
私もお二人の考えに全く同感です。
 
今年に入って、六代目・中村勘九郎さんの襲名披露と、
柳家三三さんの公演に行って参りました。
 
一部の社員を説得して連れて行ったのですが、
いずれも「初めて」という彼らは、その本物の素晴らしさに、
「何かわからないけど、いい……」と感激していました。
私自身「何がいいのか?」と問われても、言葉では説明が付きません。
ただただいいのです。
そしてその本物にふれた時、自分ももっと本物にならなければならないと、
心励まされるのです。
 
そこに理屈はありません。
 
私の尊敬する経営者の方々は、観るもの、聴くもの、食べるもの……。
その対象は様々ですが、一様に最高のものふれる機会を積極的に持っていらっしゃいます。
それは、いわゆる浪費や贅沢とは違います。
 
ぜひ、本物、最高のものにふれる機会を
積極的に持っていただければと思います。


 

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2013年06月25日(火)更新

「好き嫌い」で決める、ということ



千年続く 会社をめざそう㊽
■「好き嫌い」で決める、ということ■

 
 
経営者の立場では、最終判断は自らせざるを得ません。
部門長の立場でも、すべてとは言わないまでも、自ら決めざるを得ない場合があります。
その場合、人に意見を訊くことはできても、決めてもらうことはできない。
否、たとえ決めてもらったとしても、その責任はすべて自らが負わなければなりません。
どうせ最終責任を負うのであれば、やはり自ら意思決定したほうがいいでしょう。
今回は、意見を求められる立場の人間として、その判断基準について考えてみたいと思います。
 
人は意思決定をする際に、概ね三つの観点で判断するものです。
一つは「正しいか、正しくないか」。もう一つが「できるか、できないか」。
そして最後に「好きか、嫌いか」です。
 
最初に結論を申し上げれば、トップとしても最も好ましい意思決定基準は
「好き嫌い」であって良いと思います。
 
どれだけ正しくても、どれだけできることであったとしても、
好きでなければ長続きはしない。

長続きしなければ成果など上げることはできず、
結果からすれば「やらないほうがまし」ということになります。
 
逆に、その判断時点においては周りから否定されようが、
罵られようが、バカにされようが、本当に好きなことをトコトン追求していけば、
いつの間にか新たな価値観が生まれ、正しくなってしまう。
 
また「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったもので、
不可能だと思われたことでも、好きなことなら可能にしてしまう。
「好き」にはそれだけの強烈なパワーが内在しています。
 
しかしながら、「好き嫌い」での判断には、前提条件があります。
 
第一に、夢の実現に繋がっているものであることであり、
第二に、周りに喜びや幸せを与えるものであることです。
この2条件が伴っていない「好き嫌い」は単なる我欲の表れであり、
どこかの製紙会社の御曹司のような大きな過ちを犯すことになります。
 
優良企業の経営者の中に「好き嫌いで判断しても間違うことはない」と
断言される方が多くいらっしゃいますが、
まさしくこの2条件を兼ね備えておられるから間違えることがないのだと思います。
 
一方で、「正しいか、正しくないか」や「できるか、できないか」に固執し過ぎると、
経営に幅がなくなります。中でも「正しさ」は、移ろいゆくもの。
その時点での正誤の判断は、数年後には全く異なる結果となっている場合さえあります。
 
積極的に「好き嫌い」判断基準をお薦めいたします。
ただし、2条件が伴うものであることがあくまでも前提です。



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2013年06月11日(火)更新

育てるために「アウトプットの場を設ける」ということ


千年続く 会社をめざそう㊼
■育てるために「アウトプットの場を設ける」ということ■



今年、私の部門で4名の新入社員を迎えました。
今では別々の部署に配属され、それぞれの指導担当者の下で成長の日々を送っています。
そして私は、4組のペアが真剣に向き合う姿を見ながら、
改めて教育の面白さと難しさを感じています。
 
・最低限のことは教えなければいけないが、教え過ぎてはいけない。
・ある程度の負荷を掛けなければいけないが、掛け過ぎてもいけない。
・厳しく接することも必要だが、厳し過ぎても(厳しいだけでは)いけない。
・かまい過ぎてもいけないが、放置し過ぎてもいけない。
 
要するに「さじ加減」というものが実に面白く難しい。
 
そもそも教育とは、「教える」ことと「育てる」ことの両面があります。
その本質的違いを、私は次のように解説しています。
 
教える=「押し得る」=押して(言って聞かせて)得させる。
育てる=「素立てる」=元々持っているものを立てる(引き出し、伸ばす)。
 
今回の指導担当は全員若手で、中には初めて指導担当となった者も。
そんな彼らに共通するのは「教える」に偏る傾向にあること。
「自分のすべてを伝えたい」そんな熱い思いが、偏りを生じているように思います。
 
そんな彼らに私が言い続けているのが「アウトプットの場を設けよ」ということです。
 
「教えるな」と言っても、「押し得る」ことに燃える彼らにとっては無理な話。
だったらその部分は好きにやらせて、「育てる」ことの大切さを実感してもらうしかない。
「素立てる」ためには引き出す必要がありますから「やらせる」、
すなわち「アウトプットの場を設けよ」という指導になるわけです。
 
さて、この指導に対する反応は三者三様(四者四様?)。これまた実に面白い。
 
直ぐにアウトプットの場を設けてしまえる者と、いつまで経っても動こうとしない者がいる。
この違いをじっくり眺めていると、
そこに「責任」というものに対する向き合い方の違いを発見することができます。
 
アウトプットさせるということは、そこに何らかの成果物を求めるということであり、
特にお客様に対して直接的なアウトプットの場を設けるということは、責任問題が生じます。
 
そのような状況の中、直ぐにアウトプットの場を設けることができる者は、
仮に部下が失敗したとしても、その責任を一身に被ろうという明確な意思と意欲と自信があります。
できない者は、その覚悟がないから与えられない。そういうものだと思います。
 
これはその指導担当の上司としてもかなり勇気のいることです。
指導担当が任せて失敗したことの責任を最終的に追うのは、
「アウトプットの場を設けよ」と指示した私なのですから・・・
 
想定以上の場を設ける者にヒヤヒヤしながら頼もしく思う。
なかなか行動を起こさない者にイライラしながらもできるようになるまで我慢する。
それがトップとしての教育の面白さであり難しさではないかと思います。



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2013年03月06日(水)更新

商いとは壮大な「物語」である、ということ


千年続く 会社をめざそう㊻
■商いとは壮大な「物語」である、ということ■

 
 

私が所属する福岡事務所では、
お客様のサポート業務を担っていただくことを目的として、
現在、中途採用を行っています。
 
先日、ある女性が面接に来られました。

大学卒業後、二社ほど営業職を経験してきたその方に
当社への希望動機をお尋ねしたところ、

「人と関わる仕事をしたいと営業職を選んだが、どうも私には
合わない。お客様から喜んでいただけるサポート業務の方が私
には合っていると思う」

と答えました。
 
この言葉、どこかおかしいと思いませんか?
 
私は次のように切り返しました。
 
「営業はお客様から喜んでいただけない仕事なのですか? あ
なたがお客様から喜んでいただけるような営業をしていなかっ
ただけではないですか?」

 
サポート業務は喜ばれて、営業は喜ばれない。そんなことはあり得ません。
それどころか、サポート業務と営業は、
既存のお客様を対象とするか、新規のお客様を対象とするかが違うだけで、
全く同じ仕事だと思います。
 
「お客様にとって今一番重要な課題は何か」「その課題を解決するための改善策は何か」
「その改善策の実施にあたって当社の商品・サービスでお役に立てるものはないか」
 
新規・既存の違いなく、お客様の課題を知り、一緒になって改善策を考え、
実際に改善に至るまで寄り添いながら課題を解決していく。
その姿勢こそが大切だと思うのです。
 
そもそも商いは物語でなければならないと思います。
それはお客様の課題発生から解決に至る壮大で感動的な大作ドラマ。
 
その物語に共感して下さるお客様が、
自社の社員さんを食べさせていけるだけいて下されば生き残っていくことができる。
それ以上に共感いただければ、成長・発展させていただける。
そして、もっと多くの方に喜んでいただける物語を創れるようになれる。
 
彼女が勤めていた会社にはその物語がなかった、
ないしは彼女にその物語の素晴らしさに気付かせ、
感動させ、熱演させることができなかった。
そういうことだと思います。
 
後日、彼女から次のような文面の手紙が届きました。
 
「これまでにはないご指導をいただき、衝撃を受けたと同時に、
感謝しています。勤め始めてから、いつの間にか主観に偏った考えを持つ
自分自身に気づくことができました」
 
「これまでの販売・営業という仕事の中で、共通して変わらない私の喜び・
やりがいがあります。それは、お客様が喜んでくださることです。お客様が
持つ課題や問題に対して一緒に向かい合い、解決へ運ぶという体験をするこ
とができました。ツールや取り組みは違っても、きっとここに人と関わる仕
事のやりがいを感じているのだと思います」
 
商いの本質に気付いてくれた彼女を、
私は採用したいと思っています。
 


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