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2014-01-28T09:36:11+09:00
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2014-01-28T09:33:00+09:00
千年続く 会社をめざそう 55
■悪い報告ができる組織をつくる、ということ■
「報告・連絡・相談」の大切さは、どなたも感じておられることと思いますが、「報・連・相」の習慣を組織に根付かせるのは、いうほど簡単ではありません。
特に報告は、四六時中社員の行動を見ていることができるのであれば必要ないかもしれませんが、現実はそうはいかない。仮にできたとしても、頭の中までは覗くことはできませんから、気付きや発見は、やはり言葉にしてもらわないといけません。
ならば、報告がないという状況は、トップの掲げる方針に向けて正しく運営されているか、理想と現状の間にギャップはないか、やるべきことがきちんとできているか、などが確認できないまま経営されているということ。よくよく考えてみれば、背筋が凍る思いが致します。
その中でも特に必要なのは、できない報告、悪い報告、失敗報告。このような報告がない、更には隠すことが常態化しているような組織は、日々衰退、破滅の道を突き進んでいると言っても過言ではありません。
しかしこのような報告は、しなくて済むならしたくないと思うのが普通の人間。よって、放置すれば埋もれていくこのような報告がきちんと上がってくる組織・風土を作ることがリーダーの重要な役割の一つです。
では具体的にどうすればそのような組織・風土を作ることができるか。それは、できない報告、悪い報告、失敗報告がなされたとき、勇気を持ってそのような報告をした者を褒めることが何より大切なことです。
もちろん、そのような結果になってしまったことについては厳しく叱責する必要がありますが、報告そのものについては褒める。逆に報告がなかったときこそ、徹底的に叱る。悪い報告がなされないことを絶対に許さない。そのメリハリこそ大切です。
第二に、良くない結果に対しては、単に叱責だけに終わらせず、一緒になってケツを拭く。リーダーにはそういう心構えと姿勢が必要です。
悪い報告をしないと叱られ、すればその勇気を褒められる。さらにその結果に対しては一緒になって解決してくれようとする。そういうリーダーのもとには、悪い報告を厭う部下が育つはずはありません。
一見、割の悪い立場にも思えますが、そういうリーダーに対して部下は、一所懸命、そのリーダーを支えようとするものです。結果として、強い団結と、最良の上限関係が生まれるもの。
そのためにも、悪い報告がないことを許さず、勇気を持ってなされた報告を褒め称え、結果に対しては共に償う。是非そのような姿勢を持っていただきたいと思います。
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2014-01-17T16:02:00+09:00
千年続く 会社をめざそう 54
■明るい組織にする、ということ■
「明るい人の周りには明るい人が集まってくる」
このことに異論のある方はいないと思います。
たまにそうでない人が寄って来ることもありますが、
そういう人はそのうち、離れていってしまうか、
当人が徐々に明るくなってくるかどちらか。
朱に染まれば赤くなる。そうなれない人は馴染まず出ていくしかない、
ということですね。
それでは、明るい組織がよいか、そうでない組織がよいか、これは明白。
そして明るい組織にするためには自分自身がまず明るくなるしかありません。
自分の明るさを求心力にして、明るい人を呼び、そうでない人も明るくさせる。
そういう姿勢が大切です。
もし明るくなることに自信がなければ、
明るい人を見つけて食らいついていくしかありません。
以前からの知り合いで、どちらかというと不機嫌を身にまとったような方と、
先日、久しぶりにお会いしたのですが、
まるで別人のように明るく、爽やかになっていました。
少々驚いて、理由をお尋ねしたところ、
次のような答えが返ってきました。
ご自身が経営されている会社が暗く、
ギスギスしていたのを何とか変えようとされていた彼は、
それを社員のせいにしていた。
結果としてより厳しく、辛く当たることになる。
するとどんどん悪化していき、空気は悪くなるばかり。
ある時ふと「原因は自分にあるのではないか」と気づき、
自らを変えていこうと心に決め、いろんな会合や研修にも出るようになった。
その時に出会った一人のメンバーが非常に輝いて見え、
その人のようになりたいと念願し、一挙手一動足を真似た。真似に真似た。
そして組織は徐々に明るく、元気になっていったのだと──。
このような事例は少なくありません。
「自分が変われば相手も変わる」ことを信じ、
理想とする組織にするために自分の何を変え、何を加えればよいか、常に考え、
実践することが大切なのだと思います。
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2013-12-26T17:33:00+09:00
千年続く 会社をめざそう 53
■真の「自信」ということ■
ときに、自信と驕りを履き違えている人を見かけます。
厄介なのは、それがなかなか自覚できないことと、
その自他の認識のギャップが、好ましいコミュニケーションを阻害し、
ひいては組織崩壊の糸口にもなりかねないこと。
人の上に立つ者が、細心の注意を払うべきことの一つだと思います。
ではいったい真の自信とはいかなるものか。
今回はこの点について、私なりの考えを述べさせていただきたいと思います。
私は真の自信には以下4つの条件が必要だと考えます。
第一に、真の自信には“実績”が伴うものだと思います。
「実績のない自信なんてあるのか?」と思われるかもしれませんが、
現実にあります。自分は何の努力もしていないくせに他人の欠点をあげつらい、
他者を貶めることによって自分のポジションを維持しようとしている人がいるでしょう。
そういう自信を私は“虚なる自信”と呼び、最も戒めています。
こういう人に限って人を激しく蔑むので、悪影響はこのうえない。
第二に、真の自信には“謙虚さ”が伴うものだと思います。
「私が今こうして自信をもってやっていけるのは、私を支え、
助け、導いて下さる存在があったからである」
この謙虚な気持ちがあってこそ、経験と実績は輝きを増し、
周囲からも認められる揺るぎない自信となります。
周りが快く思えない自信など、虚栄に過ぎない。
第三に、真の自信には周囲への“信頼”が伴うものだと思います。
周りにいてくれる人たちを信じ切ることができるから、
自らは自信あることに全力を尽くすことができる。
また、人は信頼されていると自覚できた時、
その信頼を裏切ってはならないという意識が強く働きますから、
よりいっそう両者が相乗効果を発揮できるのです。
よく「俺は大丈夫だが、周りの奴らが問題だ」などという方がいらっしゃいますが、
それはまさに砂上の楼閣。
現状はある一定の条件が揃っているから、
何とか自分への自信がキープされているが、
この条件がなくなった途端に崩れる。
第四に、真の自信を持つ人は“無頂点”。
人の成長は、直線的な右肩上がりとは行かず、浮き沈みを繰り返しながら、
徐々に上がっていくといった軌道を描きます。
自信も同じで、あるときに感じられた自信が、
ふとしたことから持てない状況にあることに気づくことがあります。
問題はその後の対処の仕方で、真の自信を持つ人は、
自信がないことを自覚した時、次なる革新を始めます。
逆にそうでない人は、過去の自信にしがみつこうとする。
さて、この真の自信を身につけた人には、一つの特徴があります。
それは真の優しさを持っていること。
周囲の人に本当に幸せになって欲しいと心から願い、
期待水準に至るまで厳しく指導・叱責し続ける。
その一方で、相手の状況によっては、ときに鈍感を装ったり、笑って見逃すこともできる。
そのメリハリのある真の優しさを身に付けることができているのが、
真の自信を持つ人であるように思うのです。
この48年間の人生で、この条件を満たす人に何人もお会いしましたが、
それはもう、とても魅力的な存在でした。
私自身がそのような人になりたい、そう願って日々研鑽に努めています。
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2013-10-29T13:08:00+09:00
千年続く 会社をめざそう 52
■本当の「倍返し」ということ■
大人気ドラマとなった『半沢直樹』。全体的には好印象を持って見させていただいていたのですが、最終回については、役員会での土下座や、出向命令時の半沢の頭取に対する目つきなど、すっきりしないものを抱えたままの終焉に残念な思いが残りました。皆さんはいかがだったでしょうか。
さて、今年の流行語大賞にもなろうかという半沢の決め台詞「倍返し」ですが、最初に耳にした時は、少々違和感がありました。本来は「仕返し」的に使う言葉ではなかったように思えたからです。実際に辞書を引いてみても、「贈られたものや受領したものに対して、倍額に相当する金品を相手に返すこと」(大辞泉)とあります。
もしこのドラマを通じて、倍返しの本当の意味が間違って伝わってしまっているのであれば、少し悲しい気持ちになります。
そもそも「仕返し」という行為は、仇討が厳しく制限されていたことを鑑みても、この日本では恥ずかしい、誤った行いという認識があったように思います。受けた恨みは水に流し、受けた恩は倍返し。これこそが二千年を超える歴史をもつこの国が、幸せな社会を実現するために、その経験を通じて学び、伝承してきたことだと思うのです。
「仕返しからは憎しみしか生まれない」。このことは、今も世界各国で繰り広げられ、いつ終わるとも知れない戦争やテロなどからも、火を見るより明らかです。
一方で、友人や真っ当な人間に対する半沢の態度には、いま日本人が忘れかけている「相手の立場・事情・気持ちになって思いやる」「罪を問わず、咎めず、許し切る」、“恕”の心に溢れていました。
正直なところ、この“恕”という軸でこれまでの自分の態度・姿勢を見詰め直したとき、反省すべきところが多く、赤面の思いに駆られることが何度もありました。今一度その時の反省を思い起こし、これからの人生に活かしていきたいと思います。
相手の心に自分の思いをお遣いに出して、その方に本当に必要なものを知り抜き、自分のできる精一杯を尽くし、心から喜んでいただく。そしていただいた恩に対しては倍返し。そんな人生を歩んでいくことが出来たら、これ以上の幸せはないように思います。
倍返しといっても、何も金品である必要はありません。“無財の七施”という教えもある通り、お金を掛けずともできる恩返しはあります。
ある社長は、何かあると直ぐにお礼状を下さいます。
もちろん直筆で、なおかつ「いつ書かれたのだろう?」と不思議に思うほど早いのです。その形式的でない心の籠ったお言葉と、例えばお伺いさせていただいたことへのお礼であれば、私の退室後、直ぐに書かれたのであろう到着スピードの速さは私の想像をはるかに超え、十倍返しほどの感動をいただきます。
ご自身でできる「倍返し」のスタイルを模索することも、また楽しいものだと思います。
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2013-08-28T10:02:00+09:00
千年続く 会社をめざそう 51
■決断の本質は「捨てる」肚の括りにあるということ■
国税庁が公表した「会社標本調査」によれば、
平成23年の法人数は257万社で、そのうち、利益計上申告法人は27.7%だったそうです。
法人数は毎年減少を続け、更にその中の黒字企業は1/4しかない。
しかし、実態はもっと厳しいようにも思います。
そのような環境にあっても、成長し続けている会社があります。
仕事柄、多くの経営者の方とお会いしますが、
成長し続ける会社の経営者の方には、いくつかの共通点があります。
まずはそうでない経営者の方に共通するのが「○○だからできない」というフレーズ。
「人がいない」「お金がない」「時間がない」「ノウハウがない」「設備がない」「情報が入ってこない」「協力者がいない」「前例がない」・・・まさに“ないもの尽くし”です。
特に中堅・中小企業においては、この“ないもの尽くし”の状態はどこでも同じ。
成長し続ける企業にあって、そうでない企業にはない、というものではありません。
成長し続ける企業の経営者に共通するのは、その後です。
「ならばどうするか?」ここに真剣に向き合い、
クリアすることを習慣としている経営者がいる会社が成長し続ける、そういうことだと思います。
もう一つ大切なことがあります。
上記のような“できない理由”が出てくる根源、
すなわち過去のしがらみを断ち切ることができるかどうか、という点です。
誰でも「できない」で止まりたい訳ではない。
止まらざるを得ない理由があるのです。
「何か新しいことがしたいのなら、まず、何を捨てるかを考える」
どうも、この観点が必要なようです。
以前、ある雑誌で松井証券の松井道夫さんが
「決断とは、実は捨てることである」と仰っていました。
「その決断ができないと、なにかをやろうにも、やりようがなく、
捨て切れないこと(通常の証券営業の事業)が新しくやろうとすること
(ネット販売)の足をひっぱる(営業マンの歩合給を含む料金体系と
ネット販売での価格設定は両立しようがない)」と。
まさにそういうことだと思います。
両手が塞がっている中で欲しいものがあるならば、一つ手放すしかない。
その決断と肚括りができるかどうかが、
成長し続けることができるかどうかの分岐点だと思います。
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2013-07-31T09:06:00+09:00
千年続く 会社をめざそう?
■「他責」か「自責」かで人生は変わる、ということ■
仕事柄、多くの経営者・後継者・経営幹部の方とお話しする機会が多いのですが、
その内容によって、何度もお会いしたくなる方とそうでない方がいらっしゃることは、
皆さんも感じられるところではないでしょうか。
いくつかの理由が考えられますが、大きな要因に、
問題に対する姿勢が挙げられるように思います。
あまりよい印象が持てない方の共通項は、「他責」にすること。
社会が悪い、政治が悪い、取引先が悪い、社員が悪い、運が悪い──と
何かにつけて人や環境のせいにして、自らの問題に向き合おうとしない。
こういう人とお話をしておりますと、
まあ、社会や政治の部分については共感できる点もなくはないのですが、
特に経営に直接関わる対象者に矛先が向かうと、
「でもそういう環境を作っているのはあなたですよね」と
言いたくなってしまいます。
他責の人は総じて仕事がうまくいかない、経営がうまくいかない。
しかし他責にするゆえに学べないし、自分のいたらなさに気づけない。
だから、結局何も変えることができない。
そういう方とお話をしていると気分が悪くなるだけで学ぶことは少ないですから、
あまりお会いしたくありません。
一方で、何度もお会いしたくなるような方の共通項は
「自責」で考えることが身についていらっしゃること。
そういう方は、いかなる失敗からも立ち直り、
窮地に陥っても必ずリカバリーされているから、
話の内容も楽しく、また勉強になるものです。
そういう方であればその魅力に虜となり、
一方で自らのありように反省もさせられる。
そしてまたお会いしたくなる。
要するに、他責にする人は、人に怒りを生じさせ、
自責で考えることができる人は、相手の心を正す。
そういうことだと思います。
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2013-07-19T13:44:00+09:00
千年続く 会社をめざそう?
■最高のものにふれる、ということ■
私は若手の経営者・後継者の方々に、
「時には最高のものにふれてみること」をお勧めしています。
それだけで心が豊かになり、明日への活力になる、と。
それはどんな分野のものでもよいと思います。
私が必ず年1回は足を運ぶのは、歌舞伎とクラシックのコンサート。
それ以外に、落語や狂言なども、興味の対象。
街に張り出されるポスターなどを見て、心躍るものに出会っただけでも、
幸せな気分になります。
お聴きしたところによると、「鎌倉シャツ」で知られる、
メーカーズシャツ鎌倉の創業者・貞末良雄さんは
「経営者はグレートコンシューマたれ」と
おっしゃっているそうです。
自分でお金を使ってちゃんとしたものを食べたり買ったりするから、
ものの価値がわかる、審美眼、審“物”眼、のようなものを養えるとのこと。
また、池波正太郎さんもその著書「男の作法」の中で、
若くてカネがないときでも、少し小金を蓄えて、
一月や三月に一度は、しっかりとした店でよい料理を食べろ、
と書いていらっしゃいます。
でないとものの価値がわからない人間になる、
戦前は、カネがなくてもみんなそんなことをしていた、と……。
私もお二人の考えに全く同感です。
今年に入って、六代目・中村勘九郎さんの襲名披露と、
柳家三三さんの公演に行って参りました。
一部の社員を説得して連れて行ったのですが、
いずれも「初めて」という彼らは、その本物の素晴らしさに、
「何かわからないけど、いい……」と感激していました。
私自身「何がいいのか?」と問われても、言葉では説明が付きません。
ただただいいのです。
そしてその本物にふれた時、自分ももっと本物にならなければならないと、
心励まされるのです。
そこに理屈はありません。
私の尊敬する経営者の方々は、観るもの、聴くもの、食べるもの……。
その対象は様々ですが、一様に最高のものふれる機会を積極的に持っていらっしゃいます。
それは、いわゆる浪費や贅沢とは違います。
ぜひ、本物、最高のものにふれる機会を
積極的に持っていただければと思います。
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2013-06-25T09:33:00+09:00
千年続く 会社をめざそう?
■「好き嫌い」で決める、ということ■
経営者の立場では、最終判断は自らせざるを得ません。
部門長の立場でも、すべてとは言わないまでも、自ら決めざるを得ない場合があります。
その場合、人に意見を訊くことはできても、決めてもらうことはできない。
否、たとえ決めてもらったとしても、その責任はすべて自らが負わなければなりません。
どうせ最終責任を負うのであれば、やはり自ら意思決定したほうがいいでしょう。
今回は、意見を求められる立場の人間として、その判断基準について考えてみたいと思います。
人は意思決定をする際に、概ね三つの観点で判断するものです。
一つは「正しいか、正しくないか」。もう一つが「できるか、できないか」。
そして最後に「好きか、嫌いか」です。
最初に結論を申し上げれば、トップとしても最も好ましい意思決定基準は
「好き嫌い」であって良いと思います。
どれだけ正しくても、どれだけできることであったとしても、
好きでなければ長続きはしない。
長続きしなければ成果など上げることはできず、
結果からすれば「やらないほうがまし」ということになります。
逆に、その判断時点においては周りから否定されようが、
罵られようが、バカにされようが、本当に好きなことをトコトン追求していけば、
いつの間にか新たな価値観が生まれ、正しくなってしまう。
また「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったもので、
不可能だと思われたことでも、好きなことなら可能にしてしまう。
「好き」にはそれだけの強烈なパワーが内在しています。
しかしながら、「好き嫌い」での判断には、前提条件があります。
第一に、夢の実現に繋がっているものであることであり、
第二に、周りに喜びや幸せを与えるものであることです。
この2条件が伴っていない「好き嫌い」は単なる我欲の表れであり、
どこかの製紙会社の御曹司のような大きな過ちを犯すことになります。
優良企業の経営者の中に「好き嫌いで判断しても間違うことはない」と
断言される方が多くいらっしゃいますが、
まさしくこの2条件を兼ね備えておられるから間違えることがないのだと思います。
一方で、「正しいか、正しくないか」や「できるか、できないか」に固執し過ぎると、
経営に幅がなくなります。中でも「正しさ」は、移ろいゆくもの。
その時点での正誤の判断は、数年後には全く異なる結果となっている場合さえあります。
積極的に「好き嫌い」判断基準をお薦めいたします。
ただし、2条件が伴うものであることがあくまでも前提です。
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2013-06-11T19:42:00+09:00
千年続く 会社をめざそう?
■育てるために「アウトプットの場を設ける」ということ■
今年、私の部門で4名の新入社員を迎えました。
今では別々の部署に配属され、それぞれの指導担当者の下で成長の日々を送っています。
そして私は、4組のペアが真剣に向き合う姿を見ながら、
改めて教育の面白さと難しさを感じています。
・最低限のことは教えなければいけないが、教え過ぎてはいけない。
・ある程度の負荷を掛けなければいけないが、掛け過ぎてもいけない。
・厳しく接することも必要だが、厳し過ぎても(厳しいだけでは)いけない。
・かまい過ぎてもいけないが、放置し過ぎてもいけない。
要するに「さじ加減」というものが実に面白く難しい。
そもそも教育とは、「教える」ことと「育てる」ことの両面があります。
その本質的違いを、私は次のように解説しています。
教える=「押し得る」=押して(言って聞かせて)得させる。
育てる=「素立てる」=元々持っているものを立てる(引き出し、伸ばす)。
今回の指導担当は全員若手で、中には初めて指導担当となった者も。
そんな彼らに共通するのは「教える」に偏る傾向にあること。
「自分のすべてを伝えたい」そんな熱い思いが、偏りを生じているように思います。
そんな彼らに私が言い続けているのが「アウトプットの場を設けよ」ということです。
「教えるな」と言っても、「押し得る」ことに燃える彼らにとっては無理な話。
だったらその部分は好きにやらせて、「育てる」ことの大切さを実感してもらうしかない。
「素立てる」ためには引き出す必要がありますから「やらせる」、
すなわち「アウトプットの場を設けよ」という指導になるわけです。
さて、この指導に対する反応は三者三様(四者四様?)。これまた実に面白い。
直ぐにアウトプットの場を設けてしまえる者と、いつまで経っても動こうとしない者がいる。
この違いをじっくり眺めていると、
そこに「責任」というものに対する向き合い方の違いを発見することができます。
アウトプットさせるということは、そこに何らかの成果物を求めるということであり、
特にお客様に対して直接的なアウトプットの場を設けるということは、責任問題が生じます。
そのような状況の中、直ぐにアウトプットの場を設けることができる者は、
仮に部下が失敗したとしても、その責任を一身に被ろうという明確な意思と意欲と自信があります。
できない者は、その覚悟がないから与えられない。そういうものだと思います。
これはその指導担当の上司としてもかなり勇気のいることです。
指導担当が任せて失敗したことの責任を最終的に追うのは、
「アウトプットの場を設けよ」と指示した私なのですから・・・
想定以上の場を設ける者にヒヤヒヤしながら頼もしく思う。
なかなか行動を起こさない者にイライラしながらもできるようになるまで我慢する。
それがトップとしての教育の面白さであり難しさではないかと思います。
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2013-03-06T15:13:00+09:00
千年続く 会社をめざそう?
■商いとは壮大な「物語」である、ということ■
私が所属する福岡事務所では、
お客様のサポート業務を担っていただくことを目的として、
現在、中途採用を行っています。
先日、ある女性が面接に来られました。
大学卒業後、二社ほど営業職を経験してきたその方に
当社への希望動機をお尋ねしたところ、
「人と関わる仕事をしたいと営業職を選んだが、どうも私には
合わない。お客様から喜んでいただけるサポート業務の方が私
には合っていると思う」
と答えました。
この言葉、どこかおかしいと思いませんか?
私は次のように切り返しました。
「営業はお客様から喜んでいただけない仕事なのですか? あ
なたがお客様から喜んでいただけるような営業をしていなかっ
ただけではないですか?」
サポート業務は喜ばれて、営業は喜ばれない。そんなことはあり得ません。
それどころか、サポート業務と営業は、
既存のお客様を対象とするか、新規のお客様を対象とするかが違うだけで、
全く同じ仕事だと思います。
「お客様にとって今一番重要な課題は何か」「その課題を解決するための改善策は何か」
「その改善策の実施にあたって当社の商品・サービスでお役に立てるものはないか」
新規・既存の違いなく、お客様の課題を知り、一緒になって改善策を考え、
実際に改善に至るまで寄り添いながら課題を解決していく。
その姿勢こそが大切だと思うのです。
そもそも商いは物語でなければならないと思います。
それはお客様の課題発生から解決に至る壮大で感動的な大作ドラマ。
その物語に共感して下さるお客様が、
自社の社員さんを食べさせていけるだけいて下されば生き残っていくことができる。
それ以上に共感いただければ、成長・発展させていただける。
そして、もっと多くの方に喜んでいただける物語を創れるようになれる。
彼女が勤めていた会社にはその物語がなかった、
ないしは彼女にその物語の素晴らしさに気付かせ、
感動させ、熱演させることができなかった。
そういうことだと思います。
後日、彼女から次のような文面の手紙が届きました。
「これまでにはないご指導をいただき、衝撃を受けたと同時に、
感謝しています。勤め始めてから、いつの間にか主観に偏った考えを持つ
自分自身に気づくことができました」
「これまでの販売・営業という仕事の中で、共通して変わらない私の喜び・
やりがいがあります。それは、お客様が喜んでくださることです。お客様が
持つ課題や問題に対して一緒に向かい合い、解決へ運ぶという体験をするこ
とができました。ツールや取り組みは違っても、きっとここに人と関わる仕
事のやりがいを感じているのだと思います」
商いの本質に気付いてくれた彼女を、
私は採用したいと思っています。
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2012-12-28T16:13:00+09:00
千年続く 会社をめざそう?
■部下指導は「できる」から始まる、ということ■
指導というものは、本当に難しいものです。
一番の難しさは、指導する側が必要だと思っていても、
指導される当の本人がその時点ではその必要性を感じていない、
というところにあるのではないかと思います。
先日も、20年前に直属の部下だった者と久しぶりに飲む機会があり、
酔いも手伝ってか、彼が次のようなことを話してくれました。
「今だから言えますけど、正直、僕は亀井さんのことが大っ嫌いだった。
亀井さんの言うことはいちいち納得できないし、反発しても正論で言い
返されるから何も言えなくなっちゃうし、言われた通りやってもなかな
か成果は出ないし・・・」
一緒にいた今の部下が目を白黒させながら聴いているのをよそ眼に、
その頃どれだけ嫌な思いをしていたかを延々と続けます。
しかし最後に、
「でも、あのときの指導があったから今の自分があると、これは自信を
持って言えます。本当に感謝しているんですよ。今だから言えますけど
・・・」
ちょっと嬉しかったです。ただ、「もう一回“あの頃の”亀井さんの部下になれと言われたら、
きっぱりと断りますけどね(笑)」の一言は要りませんでしたが・・・。
20年以上の歳月が経っていますが、
部下に対する姿勢はそれほど変わってはいないようです。
ただ、以前から比べれば、相手が気持ちよく理解し、納得し、
喜んで動いてくれるような工夫はするようになっているようです。
彼が“あの頃”を強調した理由は、
以前の私にはその工夫が全くなかったからだそうですから。
相手が「必要ない」と思っていても、
自分が「この人には必要だ」と思うのならば、
焦らず、じっくりと、相手がその必要性に気付くまで、
穏やかに伝え続ける。
部下指導においては、このような姿勢が大切なのだと思います。
そしてその相手への思い遣りが本物ならば、必ず届くのだと・・・
「こっちがそういう気持ちで接したって、伝わらない奴には伝わらない」と
達観されている方とよく出会います。
正直申し上げれば、それは逃げであり、
人の上に立つ者としての責任放棄であると思います。
「ダメだ」から始まるからダメになる。
「できる」から始めれば、必ずできるようになる。
そういう基本的認識が必要なのだと思うのです。
世界の人口70億人の中で私が出会える人はほんのごく僅か。
その僅かな人たちの中の一人が今、誰でもない、私という上司の前に立っている。
そのことに思い至れば、我が子と思い、我が弟・妹と思い、
本当に幸せな人生を送って欲しいと心から願って指導することができるようになる。
そして、本当に我が子と思い、我が弟・妹と思うことができるようになれば、
できるようになるまで我慢強く付き合っていくことができるようになる。
そういうことだと思います。
自分の目に映る相手の問題ということよりも、
「自分は今、どのタイプになっているのか?」を
相手という鏡に映った自分に問い掛けてみることが大切なのだと思います。
自戒を込めて・・・
■名南コンサルティングネットワーク こちら>>>
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2012-10-30T09:35:00+09:00
千年続く 会社をめざそう?
■約束を守る、ということ■
「やるだけやってみます」
この言葉を聞いて、皆さんはどうお感じになりますか。
「困難なことでも何とかしようとする前向きな気持ちを感じる」方もいらっしゃるでしょうし、
「うまくいかなかったときの逃げ場を作っているだけだ」と
捉えられた方もいるのではないかと思います。
同じ言葉なのに、これだけ正反対の捉え方をされてしまう。
何だか面白いですね。
なぜこれほどのギャップが生じるのか?
私は「この言葉を口にしている人が誰かによって感じ方が変わる」ように思います。
前者の感じ方ができる相手は、約束を守る人、ないしは、
その約束を守るための努力と時間を惜しまないだろうと確信できる人。
逆に後者のように感じてしまうのは、約束を守らない人。いかがでしょうか?
以前、同じようなお話をした時、
「そんなんだったら、約束なんてしないほうがましだ!」と
真顔で答えた方がいらっしゃいました(苦笑)。
これは本末転倒ですね。
私は「約束は成長への片道切符」だと思います。
約束することはとても苦しい。約束しないですむならそのほうが楽。
でも、きちんと約束をし、その約束を果たした先には、
それ以前の自分とは比べ物にならないほど別人の成長した自分がいる。
その上、人からの信頼も自然についてくる。
要するに、約束をする・しないは“成長”に、
約束を守る・守らないは“信頼”に影響を及ぼす。
表にまとめると、こんな感じでしょうか?
「約束もしていないのに守る、守らないというのはおかしい」と
お感じになる方もいらっしゃると思いますが、
“約束”を“期待”と置き換えていただければ、
その意味はわかっていただけると思います。
ここも一つのポイントですが、約束はしていないけれども
人から期待されていることを認識している場合、
それは約束しているのと同じことだと思います。
ただ自ら覚悟をもって約束するか、
結果として約束したと同じことになるかでは、全くもって、雲泥の差ですが……。
いずれにしろ、約束することができる人は伸び、
約束を果たす人には自信と信頼が集まり、
約束をしない人は堕落する、そういうことだと思います。
一方で「人は鏡」だと言います。
また一番守らなければならないのは「自分との約束」だとも……。
自分の目に映る相手の問題ということよりも、
「自分は今、どのタイプになっているのか?」
と、相手という鏡に映った自分に問い掛けてみることが大切なのだと思います。
自戒を込めて・・・
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2012-10-16T11:10:00+09:00
千年続く 会社をめざそう?
■肚を括ることのできる採用をする、ということ■
前回に引き続き、私の採用責任者時代の失敗から学んだことを
お伝えしたいと思います。
採用活動を始めた最初の2~3年、何とも納得できない現象がありました。
それは、
「内定を出した途端に豹変する」
ということ。
内定をもらうまでは明るく、元気で、素直で、
二言目には「何でもやります!」。
その魅力に惹かれて内定を出すのですが、内定を出したとたん、
暗く、元気なく、自分のことしか考えず、
「○○は本当にやらなければならないのですか?」となってしまう。
当時は何人かに一人はこのような“豹変”する子がいました。
最初は「騙された」と、その内定者のせいにしていたのですが、
そのうちに、自分の面接方法に原因があるのではないかと考えるようになりました。
「私は○○をやっていて、そこで□□という成果を挙げることができました」
面接中、こんな話がよく出てきます。
それに対して当時の私は、
「それは凄いね。そういうことができるなら、
当社でやっている△△で力を発揮してもらえそうだね」
などと、その言葉を鵜呑みにし、一人悦に浸っていました。
それほど厳しいものではなかったのですが、
採用担当者としてのノルマもありましたので、
「これで一人確定!」という気持ちがあったことは否定できませんし、
応募者から「いい人と思われたい」という気持ちが
なかったとも言い切れません。
しかし実際には、
・「(自ら)やっていた」のではなく「(嫌々)やらされていた」
・「成果を挙げた」のは自分の力量や思いによるものではなく、他力によるものだった
などといった場合がある。
豹変する子の多くはそういうタイプで、
嘘とまでは言わないまでも、自力でないものを自力とし、
それが内定の理由になっていることを自覚する彼らは、
等しく内定後に“豹変”するのです。
このことに気づいてから、私は
「面接では“性悪説”。採用したら“性善説”」を心掛けています。
内定を出す前は両目を開けて長所も短所もじっくり見極める。
想像や思い込みではなく、確実に事実で裏を取る。
人は嘘をつくつもりではなくとも、
結果としてそれに等しいことをしてしまうことがある。
でも事実は裏切らない。
「なぜそうしようと思ったの?」「障害が生じた時あなたは何をしたの?」
「どうしてその苦難を乗り越えることができたの?」とどんどん詰める。
本当に“自力”によるものであればスラスラと答えられる。
少しでも事実ではなければ答えは詰まる、窮する、しどろもどろになる。
このように“性悪説”に立った問答をすることで
応募者の“素”の姿が顕かになり、
結果としてお互いの「ミスマッチ」は解消される、
そういうものだと思います。
また短所にも徹底的にスポットを当てる。
その子の長所・短所を十二分に知り尽くしたうえで、
「私はこの短所を認め許すことができるか、
ないしは責任を持って改めさせることができるか」で、
内定を出すか出さないかを判断する。
そういう姿勢が大切であることを学びました。
そしてこのような意思決定をしたとき、
彼・彼女をわが子のように育てていくことの
肚括りができるものだと思っています。
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2012-09-28T10:11:00+09:00
千年続く 会社をめざそう?
■責任をもって育てる、ということ■
現在当社では、コンサルティング部門を中心に中途採用を実施しています。
私は平成14年から昨春まで人事・総務の責任者として採用に直接関わってきましたが、
現場の責任者に戻った今、改めてその難しさを痛感しています。
総務時代は数多くの失敗をしてきました。
またその失敗を通じて多くのことを学ばせてもいただきました。
その中から、いくつかご紹介させていただきたいと思います。
今でも悔やんでいる最大の失敗があります。
当社では新卒採用の際、①筆記、②グループディスカッション(以下GD)、
③マネージャー(課長クラス)面接、④配属予定部署の役員面接、
⑤社長(最終)面接というステップを踏みます。
第二次選考のGDでその失敗は起こりました。
このGDでは、120名ほどの一次選考通過者を1回あたり30名ほどのグループに分け、
さらにグループごとに5~6チームに分けて一つのテーマでディスカッションを行い、
その時の発言や立居振舞い・担った役割などを
毎回10名ほどのマネージャーが審査員となって見分し、
その結果で通過者を選定します。
当時の私は「多数決制」を採用していました。
すなわちマネージャー推薦の数の多さをもって、
二次選考通過者を決定していたのです。
2年目のことです。
あるマネージャーが「できれば残して欲しい」という学生がいました。
しかしその他のマネージャーからの推薦はありませんでした。
私は原則に従って、その子に不採用通知を送りました。
しかし、どこかで引っ掛かりがあった。そんな時、その子から電話が入って来たのです。
「もう一度チャンスをください」と。
私は「残して欲しい」と言ったマネージャーに連絡を入れました。
彼は大いに喜び、「ぜひ面接させてほしい」と懇願しました。
その後、役員面接、社長面接と進んで、結果は「採用」。
モヤモヤ感を感じながらも、
少しホッとしたというのがその時の素直な気持ちでした。
しかし、それだけではすみませんでした。
その年の忘年会の、内定者も交えた二次会の席で、
その子が他の内定者に「本当は二次選考で落ちていた。一度捨てられた子」と
話しているのを耳にし、自分が犯した罪の大きさに愕然としました。
その子が今ではその部門のNO2の立場を担っていることを考えると、
なおさら心に刺さった棘が痛みます。
「不要な負い目を背負わせてしまった」と。
翌年の二次選考では、審査方法を「スター誕生方式」に変えました。
年配の方であればご存じだと思いますが、
歌手志望の子がステージで歌い、それを見聞きし、
その子を育てたいと思ったプロダクションの代表者が
プラカードを挙げてその意思表示をする、という
古いテレビ番組と同じ方法を採ったのです。
具体的には、GD終了後、審査員となったマネージャーに
次のように質問します。
「あなたが責任を持って育てたいと思う人に手を挙げてください」と。
この方式に変えて、一つ面白い現象が起こりました。
10名の審査員の殆どが「○」を付けているのに、
「育てたい」人には誰も手を挙げない、ということが結構多く見受けられたのです。
「良い子」と「育てたい子」は、どうも違うようです。
「責任を持って人を採用する」姿勢は、
永続企業が等しく持つ一面ではないかと思います。
もう一つ、ご紹介したい失敗がありますが、
これは次回に譲りたいと思います。
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2012-08-29T08:54:00+09:00
千年続く 会社をめざそう?
■お客様に寄り添う、ということ■
先日、営業成績が伸び悩むA君から電話があり、
「どうしたら売れるようになるのでしょうか?」との
質問を受けました。
「売ろうとしていたら売れないよ。得る(うる)のはお客様で、
こちらは買ってもらうの」
「はぁ~」と不満とも不安ともつかない声のあと、
「どうしたら買ってもらえるか、教えてください」というA君に、
私は次のような話をしました。
「恋人がいるとするだろ。その恋人が、思い悩んでいる。そんな
時、どうする? いきなり『こうしたらどう?』なんて言わない
だろ。だって何に悩んでいるか、わからないんだから。だからま
ずは話を聴くよね?『どうしたの?』って」
「そうすると、少しずつ話をし始める。でもたいてい本人も頭の
中が整理されているわけではないから、脈略のない話がいろいろ
出てくる。そんな状態では、こちらもよくわからないから、『そ
れはどういうこと?』『なぜそうなったの?』『本当はどうした
いの?』って、いろんな角度から聴いていくよね。そうすると、
彼女も頭の中がだんだん整理されてくる」
「元々、悩んでいるのは彼女。だから答えはこちらにはなくって、
彼女の中にある。こちらができるのは、彼女の中にある答えを引
き出してあげることだけ。そしてそれを引き出すためには、よい
質問をすること」
「じゃあ、よい質問をするためには、どうしたらよいと思う?
そう、本当に彼女のためを思って、彼女の悩みを解決してあげた
いと心から願って、自分のできる最大限のことをしてあげたいと
念願したら、勝手によい質問ができるものさ」
「そうこうしているうちに、彼女の悩みの原因がはっきりしてく
る。原因さえはっきりすれば、自分がしてあげられることもはっ
きりする。もし今の自分では解決してあげられないのであれば、
どうしたら力になってあげられるかを考え、実践すればよい」
「彼女をお客様に置き換えて、そういう気持ちでお客様に寄り添
っていく。そういう姿勢が大切じゃないかな?」
……と伝える私に、A君は今一つ煮え切らない声でしたが、
「わかりました」と言って電話を切りました。
その声のトーンに、
〈もしかしかしたら、愚痴を聞いて欲しかっただけかもしれない〉と、
A君の本音に寄り添えなかったのかもしれない自分を、
少し反省しました。
いずれにしても、お客様であっても、社員さんであっても、
お客様を親・兄弟や恋人・伴侶、我が子のように寄り添えば、
本人が気づいていなくても、今何が必要かが自ずと見えてくる。
そして、そのとき自分ができる最大限のことをやらせていただく──。
そこに真の信頼関係が生まれるものだと思います。
数日後、「今恋人はいないので、妹だったらと思って接してみました」と
嬉しそうに受注報告をしてくれたA君。
私の反省をよそに、自ら「得る」ことができたようです。
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2012-08-14T18:00:00+09:00
千年続く 会社をめざそう?
■「やらせる」のではなく「やりたくさせる」ということ■
先日、ある後継者の集まる会合で、次のような話が出ました。
「今の私の最大の課題は、幹部を育てることです」
これは多くの後継者が犯す過ちです。後継者に幹部を育てることなどできません。
育てられる何ものももっていないからです。
後継者ができることは、自分自身が精一杯背伸びをして
不断に自己成長させていくことしかない。
私はよく人の上に立つ人には、次のように話をします。
「言葉にするときは目線を下げ、姿を見せるときは目一杯背伸びをすること」
ところが得てして人は、この逆をやってしまいます。
すなわち、
「言葉にするときは上から目線で、姿を見せなければならない時にはできないことの言い訳ばかり」
厳に戒めなければなりません。
ではなぜこのような姿勢が大切なのか?
それはご自身が逆の立場であれば、よく理解できるはずです。
人はどのような人に魅力を感じるのでしょうか?
「この人のために頑張ろう!」「この人についていこう!」と思わせる人には、
いくつかの共通があるように思います。それは──
・互いのことがよく分かり合えていると思える人
・自分のことを大切に思ってくれている(ことが分かる)人
・夢を与えてくれる人、または共有できる人
・その夢に向かって率先垂範、遮二無二がんばっている人
・ この人と一緒にいれば、必ずよい成果が挙げられると確信が持てる人
などなど。そしてこのような人こそが、
真に人を育てることができる人なのだと思うのです。
真のリーダーシップ力とは、「やらせる」力ではなく「やりたくさせる」力。
そのことに気づいた時、今自分が何をしなければならないのか、
自ずとわかってくるのだと思います。
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2012-07-24T18:04:00+09:00
千年続く 会社をめざそう?
■不安を取り除く、ということ■
人はときに「不安」になることがあります。
私はその不安の原因には、概ね三つあるように思います。
第一に、やるべきことが見当たらない、見つけ出せない不安。
第二に、やるべきことはわかっているのにできずにいる不安。
第三に、やるべきことをやっているはずなのになかなか成果が表れてこない不安です。
同じ不安であっても原因が違うのですから、対処法ももちろん変わってきます。
第一の不安に対しては、黙って待っていて答えが見つかるはずはありませんから、
もがきにもがいて、その時々に正しいと思えることをやりながら
答えが見つかるのを待つ、という姿勢になります。
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、
この不安を解消するためには、
「天命(答えは必ず見つかること)を信じて人事を尽くす」
という姿勢が正しいように思います。
第二の不安については、その状態を放置できてしまっている原因を探る必要があります。
「楽をしたい」「苦労を避けたい」「要らぬいざこざを招きたくない」など、その原因はさまざまです。
正直なところ、放置できるのなら、それはそれで構わないと思います。
ただ「放置することを積極的に選択している」ということを
きちんと受け止める必要がある。
そうでない人は、必ず周囲に悪しき影響を及ぼすものです。
成果が上がらないことに対して人を責める、
自己を防衛するために要らぬことをする、よくない雰囲気をまき散らす……。
そのことをきちんと認識しておかなければなりません。
第三の不安は、これはもう、信ずるところを続けるしかない。
夜が明ければ朝が来る、冬が去れば春が来る。
ただし、どれだけ「これが正しい」と信じていても、
「もしかすると何か欠けていることがあるのかもしれない」という疑問は
常に持ち続ける必要がある。
その疑問を心に留めながらも、その答えが出ないのであれば、
信ずるところを全うするしかない。
いずれにしろ、不安になるのは、単に準備が足りないだけ。
「これ以上はない」と思える準備ができていれば、不安は覚悟に変わる。
そういうことだと思います。
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2012-07-17T13:14:00+09:00
千年続く 会社をめざそう?
■実は過去は変えられる、ということ■
先日、目からウロコの話をうかがいました。
私はこれまで「過去と他人は変えられない。変えることができるのは未来と自分」と
お伝えしてきました。
過去の出来事にうじうじせず、変わらない周囲を恨むことなく、
自分と未来を輝かしいものにする、そういう考えの大切さを示すものです。
しかしある方から次のようにお聞きしました。
「未来は変えられないが、過去は変えることができる」
この言葉を聞いた時には、正直、耳を疑いました。
「表現の仕方を間違えられたのだろう」と思ったのです。
ところがその方は大真面目で、「言い間違えたわけではないですよ」とまで念を押します。
その意味をおたずねしたところ、次のような回答が返ってきました。
「未来はまだ起こってないのだから変えることはできません。
また過去に起こってしまったことそのものは変えられません。
でもその出来事の捉え方は変えることができます。だから過去は
変えられるのです。」
なるほど、と唸るしかありませんでした。
人間はある現象に出会うと、一定の感情が生じます。
しかし同じ現象に出会ってもそれによって生まれる感情は万人共通ではない。
たとえば、叱られたときに生ずる感情は、怒りであったり、
悲しみであったり、感謝であったりする。
同じ人でもその立場や状況、また精神状態によっても違ってきます。
なぜこれほどの違いを生ずるのか。
それは起こった現象に対する「捉え方」にその原因があります。
「叱られた」という現象に対して、「俺だって一生懸命やっている」と
捉えれば「腹が立つ」。
「また叱られちゃった。嫌われちゃうかなぁ」と捉えれば「悲しい」。
「この人は私を育てようとして、
勇気を持って叱ってくれている」と捉えれば「ありがたい!」。
そしてどの捉え方が自分を、そして周りを“幸せ”にできるか?
これは火を見るより明らかです。
以前、どこかの国のトップが
「最小不幸社会の実現をめざす」などという言葉を使いましたが、
全くナンセンスです。
今に幸せを感じることができなかったら、
いつまで経っても幸せになることなどできない。
「過去と他人は変えられない。変えることができるのは未来と自分」
これからはこの言葉と共に、
「過去の捉え方を変えることで、人はより一層幸せになることができる」
という一言を加えようと思います。
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2012-06-26T10:58:00+09:00
千年続く 会社をめざそう?
■意思決定する、ということ■
経営者の役割が「組織が必要とする役割によって変化する」ことは、
前回お伝えしました。
しかし変わらぬ役割もあります。
というよりも、いろんなものを削ぎ落とし、削ぎ落として、
最後に残る唯一無二の役割は「意思決定」することにあります。
これ以外にはないと言っても過言ではありません。
ところがときとして、経営者の口から
「決められない」という言葉をお聞きします。
その心情は、一人の人間としてとてもよくわかるのですが、
こと経営者となれば、それは役割放棄であり、経営者失格と言わざるを得ません。
なぜ「決められない」のか、
「決められない経営者」の口から出てくるその理由は様々です。
しかし真の理由は、そこにはないような気がします。
決められないのではなく、決めようとしていない。
いや、もっと積極的に、決めないという意思決定をしている、
そう思えてなりません。
今、濁流の中に我が子が流されているとする。
そんな状況の中で「決められない」ことなどあるでしょうか。
何も考えず、上着を脱ぐことさえ気づく間もなく飛び込み、助けようとする。
少々極端な例えかもしれませんが、
厳しい経営環境の中での意思決定とは、
本来そのようなものではないかと思うのです。
確かに「決める」ことは一定の辛さを伴います。
自分の決めたことです、もし失敗するようなことがあれば責任を取らなければなりません。
また実行にあたっても自ら率先して動かなければなりません。
人が決めたことであればその人のせいにすることもできるでしょうが、
自分の決めたことは誰も責められない。
でも、その責を負うことそのものが経営者の役割だと思います。
だからこそ、成功の暁にはそれに倍する喜びも得られる。
とにかく決めること、実践することが大切。
間違ったら正せばよい。
その失敗から得られることもまた多いもの。人は失敗からしか学べません。
経営者として一番問題なのは意思決定しないこと。
「決められない」のではなく、
積極的に「決めようとしていない」ことに気づかなければ前には進めない。
決められない経営者の方には、
まずこの認識が必要だと思います。
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2012-06-15T11:01:00+09:00
千年続く 会社をめざそう?
■長年の功労者を遇する、ということ■
経営者の役割は、組織が必要とする役割によって変化します。
企業そのものが変化しているのですから、当然と言えば当然です。
たとえば、創業期においては教祖的なリーダーシップが求められるでしょうし、
ある程度成長し、管理者が育ってくればそのまとめ役、
さらに経営幹部が育ってくれば、一歩下がって全体を俯瞰する姿勢も
大切になってきます。
一方、求められる人材も企業の発展過程によって変化するのは当然です。
先の経営者の役割に照らせば、創業期においては、
よくも悪くもイエスマン的でないと成り立たないでしょう。
その後は与えられた組織のまとめ役、最終的には経営者の分身として
戦略立案まで担えれば最高です。
創業社長でよくみられるのは、
創業当初から頑張ってきてくれた人をそのままNO2にしているケース。
その人が戦略立案まで担える人材であればよいのですが、
少なくないのは悪い意味でのイエスマン。
そして求めるものと現実とのギャップを感じ、
口では文句を言いながらもその状態を放置されている。
このようなケースでは社員の不満もたまるばかり。
決してよい状態とはいえません。
では、創業以来の功労者であるその人を冷遇すればどうなるか?
昨今では、経営の厳しさを理由に、
それまでの功労者に冷たくあたる傾向もあるようですが、
それでは、若い社員が不安を抱くことになります。
繰り返しますが、時代が変われば必要な人材像も変化します。
過去の功労者が今必要な役割を担えるかどうかはわかりません。
しかし、過去の功労者を冷遇することが
組織風土に悪しき影響を与えることは避けられない。
ではどうすればよいのか?
好ましい組織風土を実現されている老舗企業を眺めてみた時、
一つの傾向があることに気づきます。
それは、報酬と役割の分離です。
ここでいう報酬とは単に経済的報酬を指すものではありません。
精神的報酬をも含みます。
彼がどんなに貢献してきたか、どんな点を見習うべきかなど、
社員からの尊敬を集めるような取り組みが必要です。
一方で、現在およびこれからの役割は別で考えなければならない。
その人が持っている長所や能力をじっくり眺め、
それにあった役割を与える。そういう姿勢が大切なのです。
過去をどう報い、今後どのような役割を担ってもらうか。
大変難しいテーマであろうかと思いますが、
その対応、その姿勢が社員の安心感と帰属意識を生むのだと思います。
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